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著者の声・第十一回、音森れんさん


私は中学生のころに一度だけ、小説家になろうと思った。
終戦直後、女手独りで四人の娘を育ててくれる母親に楽をさせたい一心からであった。
だが、その想いは直ぐに消えた。正直に言って、母を楽にしてやれる仕事であればなんでもよかった。
しかし、十九歳になり、また、小説家になろうと思った。中学生時代との違いといえば、絶対に小説家になる、絶対、という言葉が加わっただけであり、その日のために、今の筆名を用意し、恥ずかしげもなく、友人たちには自分を、れん、と呼ばせていた。

その後も、僅か五編の詩を書いただけで、気付けば私は、五十五歳を迎えていた。あまりにも長い月日が過ぎていた。
そこに到るまでの私は、自分の生活を支えて行くのがやっとで、日記すら書いたこともなかった。私は生きることを諦めたまま、呼吸だけをしていたのだろうと、今になって思う。

私が三十代の半ば、中学生になっていた息子に、
「人間の老いは、皺の数で決るんじゃない、情熱を持って生きるかどうかなんだよ。お母さんは、お祖母ちゃんよりも歳を取っている。たとえ恋でもいいから情熱を持って生きて欲しい」と言わしめたことに尽きる。
成長期にある子供たちにとっては、私は情けなく、愚かな母であった。
 そのころ私の職場に、覆面書評家の「狐」氏が転勤してきた。

氏の文学論を拝聴するうちに、私の中で根絶したと思っていた、もの書きへの想いが、ふつふつと息を吹き返してきた。それでも六篇の詩を書いただけであった。
 狐氏は重篤な病に侵されて、やがて世を去った。

一年後、氏の訃報を知り、悲しみに暮れる私の中から突然、堰を切ったように、短歌らしきもの、僅かな時間で百首ほど吹き出てきた。友人の勧めで、健友館より短歌集『路傍』の自費出版を決意した。十一年以上も前の話である。
出版の翌日に都道府県の図書館さんにご購入頂いたとの知らせを受けたが、あまりにも無知であるため、私はそれがどれほど有り難いことかも、分かっていなかった。
道行く女性に話しかけ、本を差し出し、読んでもらったりした。不思議なことに七割の女性から、「自分の人生と重なって共感を覚える」との感想を頂くことが多かった。

また、二十歳前後の大学生数人から、両親の姿に重なると、友人には語れない心の内を吐露する姿に出会ったのは意外であり、喜びでもあった。
気付くと公道の片隅で長い時間、見知らぬ人たちと立ち話をした。自分のつたない文章を通じ、見知らぬ人たちとの、心の闇の部分を語り合うことができ、私自身、救われたと感謝している。むろん、互いに何処の誰かは語らずに分かれたが。
私は、本が売れることよりも、読んでもらうことに至福の時を感じる。
ただ、短歌を好み、勉強している人たちや、私と同年代の男性には、「これは短歌ではない。また、相手にも言い分があるだろう」と、否定されることが多かったのは、事実である。
短歌でない、との言葉は、もっともだと思う。
私は十九歳の頃に、石川啄木の『一握の砂』に心引かれて、一年間、肌身離さず持ち歩いていた時期があったが、その後、短歌には触れたこともないのである。
今にして思えば、私の中で堪え切れなくなった想いが、私の意志とは関係なく、飛び出してしまったのだと思う。それゆえ、昨今の家庭内離婚や、熟年離婚が増えている状況下で、私の想いと重なる部分を持つ人が多いのかもしれないと思う。
その後、出版社が倒産し、私の拙著『路傍』も絶版となった。

私の未熟な短歌集は、それにふさわしく、私の本棚の隅で、私自身にも忘れ去られるように奥に押し込められ、窮屈そうにうずくまっていた。

十年という月日が流れた昨年の半ばに、テレビの番組内で、「これは短歌ではありません」との前置きがあり、先生により私の拙著『路傍』が紹介される機会を頂いた、との話が、八ヶ月ほど経ったある日、巡りめぐって私の耳に届けてくれた人物がいた。
作者自身が心の隅に追いやり、忘れかけていた、つたない書物を取り上げてくださった先生にお目にかかって、お礼を申し上げたい気持ちでいっぱいになった。が、様々な事情から叶わず、今日に到っている。
今は、必ずや、いつか何処かでお目にかかれる日が来るに違いない、とひたすら信じている。
何年も前に絶版になった本を捜し求めてくださった方に、お礼とお詫びの思いを込めて、今回、青松書院さんとのご縁を得ることができて、装丁も新たに、再度の出版の運びとなった。

私の拙著『路傍』には知的なものはなく、感情を抑えることができない、動物的な、情けないものしか感じていただけないかもしれない。
それでも、一度だけでも読んでいただきたい、との想いは消えない。